※超長文の独り言で、あくまでも疑問に思ったことを提示しているだけです。関係者の方を責めたり、批判したりするつもりは毛頭ありませんが、ご気分を悪くされる方がいらっしゃったら申し訳ございませんm(_ _)m
アロマテラピーや他の補完代替医療に足を踏み込んでみると…
現代医学の元になっているウィルヒョウの細胞病理説よりもヒポクラテスやガレノスが説いたユナニ医学の根幹を成してきた体液病理説の方が私にはしっくりきます。
先日、漢方を勉強した際に考え方や診断の仕方が、ホメオパシーやアリストテレスの四元素説、ヒポクラテスの四体液説、ガレノスの四気質、アーユルヴェーダなどと同じようだと感じました。
それもそのはず、これらは体液病理説が元になっています。
以下、Wikipediaより抜粋……………………
体液病理説とは…
人間の身体には数種類の体液があり、その調和によって身体と精神の健康が保たれ、バランスが崩れると病気になるとする考え方です。細胞病理説とは…
ドイツの病理学者 R.ウィルヒョーが提唱した病理学説。病理学を細胞学的に考究し,「細胞は細胞より」の標語を立て,すべての疾病は細胞の異常に基づくとした。
ウィルヒョーは「すべての細胞は細胞から」という有名な公理を生み出し、器質的疾患は、過剰な刺激や炎症が原因で生じた細胞の変形に基づく病変に必ず結びつくことを明らかにした。こうした概念は、当時の医学思想を一変させ、体液病理説は医学の主流から姿を消した。
ホメオパシーの理論は、医師でもあった錬金術師のパラケルススが見出したとも言われています。
アロマテラピーの歴史でもお馴染みの古代ローマ皇帝ネロの軍医だったディオスコリデスの著書である薬物誌『マテリア・メディカ』に、「毒は薬なり」という記述があり、これをパラケルススが引用して「すべての物質は毒である。毒でない物質は存在しない。ある物質が毒となるか薬となるかは用いる量による」と唱えたと言われています。
そしてその後パラケルススは
「真実の価値は肉体の物質的要素にあるのではなく、その本質にあるのである。そしてそれが20ポンドを1オンスまで減らしそしてその1オンすが潜在能力において20ポンドよりもはるかに上回るという真髄の法則なのである。よって少なければ少ないほど効用があるのである。」
と述べています。
ですから、ホメオパシーではポテンシーと呼ばれる希釈濃度が高い方が肉体レベルから心や感情レベルまで作用するとされています。
このパラケルススから300年後、今から200年前にホメオパシーの創始者であるドイツ人医師のサミュエル・ハーネマンが登場しました。
脱線しますが、
これは、アロマテラピーの希釈濃度にもつながるような気もします。
このパラケルススの理論によると、低濃度である方が最大限に効果を引き出せるということになります。
逆に精油の高濃度での使用は、パラケルススの理論以前に肝毒性はあっても良いことなんて1つもないんですけどね。
高濃度だから効くだなんていう考えは、あまりにも安易過ぎて笑えます。←ここは関係者を猛烈に批判しています(笑)
話を戻して、パラケルススは病気の原因として「自然因」「天体因」「毒因」「精神因」「神因」を挙げ、これら5つが人の心身から宇宙まで繋がっていると説いています。
これも東洋医学の考え方とよく似ています。私は白黒はっきりしたい方ですが、細胞病理説も体液病理説もお互いに否定するものではなく、1つにつながっていると考えるのが自然だと思うんですよね…
ウィルヒョウの“細胞が生命体の基本単位なら、病気も細胞単位に起こる、すべての疾病は細胞の異常に基づく”というのはわかります。
でも、その細胞自身も血液によって運搬される酸素や栄養素などの物質によって代謝するわけですし、細胞内自体も細胞内液で満たされて養われているのになぜ細胞病理説が体液病理説を否定できるのかが理解できません。
細胞の材料も体液が関係していると思いますし、細胞自身が病気になるのもその体液が影響すると思いますし、治る過程も体液じゃないんかな?と
その体液の材料となり、また運ばれていくものが人が取り入れる全ての物…食べ物、水、空気、体に塗る物etc…
料理の世界では、吟味して良い材料を使用していてもシェフの腕次第で出来上がりが変わってしまいます。
そんなことを考えると、そのシェフにあたるのが人間の意識なのかもしれないな…なんて思ってますけど(笑)。
なぜ細胞病理説だけが支持されるようになったのか?
ここしばらく調べている状態ですが、明確な答えがわかりません…
どなたかご存知の方がいらっしゃったら、ノータリンな私でもわかるように教えて頂きたいです…
そして否定したのならなぜ今も血液検査や尿検査があるのかな?って思います。
何にもわからないど素人の私としては。
それによく医師がテレビに出演して、血液がサラサラとかドロドロという話をしている場面を観ることがあります。
あれも血液つまりは体液の状態のことを言っているわけで、細胞の状態云々ということは一切出てきていないですよね。
ですから、暗に(明に?)血液の状態が疾病に関わるということを言っているのと同じだと思うのです。
もしかしたら、細胞病理説って本当は時代遅れなんじゃないの?って思ってしまいます。
まあなぜこんなことを長々と考えるのかと言いますと、
先日、母が肺がん末期でステージ4だと投稿しましたが…
母の痛みがあり、腫れている左鎖骨下リンパ節から採取した組織片からは悪性細胞は見つかっていないのです。
しかし、PET、CTでは肺がペッカペッカに光っている状態。
でも、本当に光っているからといって即がんだとは思えないんですよね。
でも、医師は口頭では進行がんのため余命は1ヶ月無いと。渡された文書では余命は2〜3ヶ月と書かれています。
でも、冷静に考えると状況証拠はあるけれども、物的証拠が無い状態です…
警察で言えば、限りなく黒に近いグレー?
こんな経緯から私自身は細胞が問題ではない気がしています…
今にして思えば、プチ手術なんてさせるんじゃなかった。
この手術痕の痛みで鎮痛薬を使用し、浮腫になり、痛みで食事が徐々に取れなくなっているんですから。
ここで以前も投稿してますが
「一は全、全は一」という錬金術でよく言われる言葉を思い出してしまいます。
人体に当てはめると、
一は細胞、全は細胞の集合体である個体だとすると…
個体=細胞
そして体液も全身に関わるため、やはり「全」だと思うんですよね。
だから、どっちも否定されるべきものじゃないと思うわけです。
なんだか木ばかりを見て、全体像である森を見ていない気がしますね。
先ほどの錬金術の話と同様、私の中では細胞は木で、その集合体である個体が森だと思うので、細胞や組織ばかりに着目していたら、森は見えないと思うんですが…。
どのみち現時点では、全て西洋医学に委ねているわけじゃ無いですし、自分が信じた道を行くしかないですから、実際のところわかんなくてもいいんですけどね(笑)。
時々スイッチが入ってしまい、長い独り言になりました。
おつきあい下さり、どうもありがとうございましたでしたm(_ _)m
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